ほんのひとさじ

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2019年10月25日(金)放送 沖縄熱中倶楽部 Coccoインタビュー

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2019/10/25に放送された、NHKラジオ「沖縄熱中倶楽部」内でのCoccoのインタビューを文字起こししました。

なかなか雰囲気までを文字にすることは難しいですし、細かなところは起こせていません。インタビューをしているアナウンサーの堀越さんは、相槌のうち方がとても良く聞き上手でそれもこのインタビューを印象的にしている一因と思います。

※実際の放送日は途中で豪雨のニュースになってしまい、聞き逃し配信で全編聞くことができました。

続いて番組の後半にまいります。
那覇市出身の歌手、Coccoさんへのインタビューをお届けします。
お話を聞いた堀越将伸アナウンサーにスタジオに来てもらいました。

はーい。はいさーい。この番組久しぶりでございます。よろしくお願いします。
Coccoさんですね、那覇市出身のシンガーソングライターです。
私、Coccoさん自身と同世代で、学生時代からかれこれ20年くらい聞いているんですけれども、なんかこうイメージとしてはね、孤高のアーティストというか、ちょっとこうミステリアスなイメージが強かったんですね。
でも、お会いしてみると、うちなーんちゅらしい、とってもきさくなあったかい方だったんですねー。で、えー、Coccoさんのインタビュー今日お伝えするということで、お便りもいただいていまして、いくつかご紹介しましょう。
京都府のくーたんさんです。ありがとうございますー。「先日、あっちゃんがTVに出演されたのを見ました」あっちゃんというのもCoccoさんのニックネームですね。「あっちゃんが紫色が似合うなあと勝手に思っているのですが。気温が高かったりしますが、お身体に気を付けて "シャンクシャンク" と励んでくださいませ」この "シャンク" というのは、『スターシャンク』というですね、10枚目のオリジナルアルバムを今月発売したことにちなんでいる、と。はい、思われます。
沖縄県のみささん、「あっちゃん、こんにちは。沖縄でラジオ嬉しいです。絵本もスターシャンクもツアーもみんな嬉しいです。ありがとう~」というありがとうのメッセージ、みささんからいただきました。ありがとうございますー。さあ、そんなCoccoさんの歌の世界に触れることができましたので、ぜひ、お聞きください。で、私もご一緒したいんですが、このあとの夕方のニュース番組の沖縄ホットラインのニュースキャスターとして出演がありますので、これで失礼をして、はい、お聞きいただきたいと思います。はい、では、どうぞ。

NHKのスタジオには、Coccoさんが来てくださいました。どうもありがとうございますー。こんばんはー。
「こんばんはございまーす」
はーい、よろしくお願いしますー。
「エビアレルギーです。」(笑)
そうでしたか。
「そうなんです。ふふっ」
えーと、NHKの沖縄放送局には初めていらっしゃる?
「初めて来ました」
そうですかー。今日はどうぞよろしくお願いしますー。
「よろしくお願いしまーす」
非常に簡単で恐縮なんですけども、Coccoさんをご紹介します。
「はい」

シンガーソングライターCoccoさんは那覇市のご出身です。1997年、20歳(はたち)のときにメジャーデビュー、今かかっているこの『強く儚い者たち』は、Coccoさんを一躍有名にしたCoccoさんの初期のヒット作です。
 ♪だけどとびうおのアーチをくぐーって たからーじまがみえるこーろ なにもうしなわずに
生きることの痛みですとか、希望、深い愛情などを、ありのまま、むきだしのままに、ロックやアコースティックなどの音色にのせて、歌ってきました。
「ふふふっ」
正しかったでしょうか?
「はい、恐縮であります。ふふふ」
いえいえ。
Coccoさん、デビュー22年目の今年、通算10枚目のオリジナルアルバム『スターシャンク』を発表しました。早速ですけれども、アルバムの中から、一曲聞いていただきましょう。
じゃあ、Coccoさんにご紹介いただきましょう。お願いします。
「はーい。聞いてください。Coccoで『海辺に咲くバラのお話』」
この曲は、まわりのひとたちに "ありがとう" を伝える曲なんですってね。
「うん。おおー、そうです」
と聞きましたが。
「あははははーそうです。なんだろう、もう言ってしまえば、自分がもう旅立つ日に、もう残された人たちに "ありがとう" っていうことなのかなーっていうところ、まできてるのかや、なんか」
ほーっ、この世を去るとき。
「うん」
ということですか。
「うん。そんときも、もう "ありがとう" しか残ってないはずーっていうくらい、なんかとっても幸せで、いろんなものをみんなに与えてもらって、ファンのみんなのおかげで、ここまでなんかやってこれて、もうわりと、もう思い残すことないから。」(笑)
そういう境地に。
「そういう境地にいます」
へえー。で、あの、 "海辺に咲くバラ" というのは、実際に沖縄の海辺に咲いているバラのこと、なんですね?
「そうです。あ、うちに咲いた、あの、バラの花で」
沖縄の。
「沖縄の」
はい。
「えっとー2001年に、えっとアルバムを、最後のアルバムを出して活動休止するって言って、沖縄に逃げ帰ってきて」
『サングローズ』というのありましたね。
「『サングローズ』、それで、えっとーそのときに沖縄の庭に咲いてるバラのスケッチを始めて、でそんときはなんかもう歌をやめたことでせいせいしてたんだけども、でも描いてるときに、なんか "みんなに会いたいなー" ってなってきて、みんなに会いたいってみんなって誰だろう?って考えたときに、ああCoccoのバンドメンバーだったり、スタッフだったり、一緒にツアーをまわってた、なんか、そういうひとたちに会いたくなってしまって、で、ツアーに来てくれたお客さんとか、お手紙くれたファンのみんなとかに。もう、みんなに全然ありがとう言わないで来ちゃったーと思って」
はー
「で、どうやったらこの "ありがとう" 伝えられるんだろうっていう気持ちで、ずっとその、さ、その絵を描いてて、で、その絵をなんとかならないかなーと思いつつも、日々忙しく過ぎていって、活動再開したり、またやめたりとかを繰り返したんだけど、ちょうど20周年のときに、そのー絵が出てきて。で、それをこうふろしきにプリントして、物販で発表することができて、そのテキスタイルつくって、ドレスつくって、はぁーありがとう会いたいに包まれたーと思ったら、それだけじゃ飽き足らなくて、たぶんこういう歌になって、最終的にはこう帰って来るっていうか」
はー
「いっつも答えは歌になって帰って来て、後で自分で学ぶから。いつも、歌に教えられることばっかり。っていう状態です」
歌が先に出てきて、そのとき自分が何を思っていたというのがわかるのはあと。
「あとで」
っていうことなんですか。
「そうです」
はー。それはもう、あのーCoccoさんはそういう…
「そういう種です」(笑)
あのー、歌が出てきちゃうっていうのは、どういうことですか?
「わからない。これは、なんか、こーはほんとにみんなそうだと思ってたから。逆にみんなはどうなんだろうと思って。で、こーはそのー音楽の勉強もしてないし。譜面も読めないから。楽譜も書けないし。でもその頭の中で、なんていうのかな、いわゆる歌詞と呼ばれるもの、メロディと呼ばれるもの、で、演奏、楽器とかが全部一緒に鳴り出すから。それをこう具現化する、っていうのがレコーディングなんだけども」
自然とそれは湧き出してくる?
「うん。だから、そのー曲がーみんなー、なんか "おりてくる" って言うんだけど、 "おりてくる" ってすごくなんか気持ち悪くて。なんか "おりてくる" ってなんか、 "おりてくる" んでしょ?上から」
上から
「でも、こーにとって、なんていうのかな、歌って、出ていくものだから。自分から。だから、そのなんていうのかな。 "おりてくる" って感覚は一回もない。自分から出ていく。どちらかというと "天に昇って" いくもの。なんか」
へぇぇー
「重力を感じるときはないです、歌に。自分は歌のこといつも "排泄物" みたいな感じで、生きてて痛いものとか、抱えられないものとか、栄養をすって残りかすとかが出るでしょ、毎日」
はいはい。
「それとおんなじ扱いだったから。なんかそういうのを悲しいこととか嬉しいこととか抱えきれないことって全部体にいっぱいになっちゃうから。それを出していく作業として、たぶんその歌っていうのがある。だからそれを自分から出したものを降ってくるって言われたら嫌じゃない。それかぶるの」(笑)
(笑)
「えーそれ降ってくるの?って感じだから」
嫌ですねぇ。
「うん。降ってはこない。歌は降ってはこないです。生まれて落ちて出ていくもの。生まれ出る、出てしまう、感じ」
それは特に何をしているときに歌が生まれる、ということもなく。
「ないです。何してても。みんな普通かなーって。みんなトイレとか行ったときに歌うでしょ。ふんふんふんっ♪みたいな」
あーお風呂場とか。
「そうそうそうそう!あれとおんなじ。全く同じ。それの、たぶん、ただ記憶力がいいだけだと思う」
忘れちゃうってことはあんまりないんですか。
「忘れるものもいっぱいある。で、そうすると、ふーって安心する。ああ、これは残さないでいいんだ、水に流していいんだって、ほんとに "トイレにジャー" みたいな気持ちで。なんていうのかな、あのそのずっと鳴ってると、忘れられなくて寝られなくなっちゃうから。なるべくそれは日々ちゃんと忘れたい。だけど、忘れられないのが溜まっちゃうと、こうしてアルバムになっちゃうっていうか」
はー10枚、これまで
「でも、みんなも絶対そうなってると思う。ただ、忘れちゃってるだけか、忙しいだけだと思うんだよね。と思いますよ」
へー
「歌ってるでしょ、お風呂場で」
お風呂場では歌いますね。
「それー!それ!それでみんなアルバムできる。みんな」
ほんとに!?
「うん。そういうもんだよ。みんな難しく考えすぎ。曲なんて誰もつくれないよ、あんなの。出てくるんだよ、みんな」
そういうことですかねー
「そういうことです。はい、もうできたー」
いやあ。

-----(一旦ここで生放送中のスタジオに戻る)-----

どうお聞きになりましたか?

いやあ、独特な理論ですけど…まあ、"降りてくる" よりかも "思う" っていう言葉を聞いて、その彼女の声を思われる、プロセスを聞いていると逆に「おおー」って納得しちゃう。ほんとだねー。降ってくるよりかは、うまれる、うむ、っていう言葉の使い方は正しいね。

本当に感じるものが多くて、それが溜まっていくと、曲になるという。本当にすごい印象的でしたね。

結構感受性が高いから、結構溜めて思うんでしょうね。

うーん、そうでしょうね。

僕ら、右から左の耳に流す、っていう話がありますけど、なかなか溜めることもできないような人種なんだろうなと思うんですけれども。

そうですねー、そのCoccoさんにですね、メッセージも届いています。

「同じ景色を見たくて、福岡から沖縄に移住した」という、沖縄県のまーみーさんという女性の方からいただきました。「私は田舎な風景の中で農業の日々ですが、現場ではスピーカーでCoccoさんの歌を流してテンションをあげています。これから繁忙期。ライブには行けませんが、閑散期にぜひ行きたいので、夏場にも会いにいける機会をつくってください」といただきました。

つづいて、70代の愛知県の男性からです。はやしゆきひろさんです。「私が市立図書館で司書を勤めていたころ、Coccoさんの絵本や写真集、エッセイ、小説など人気がありました。今夜お声が聞けるということで、家内とラジオの前に正座しています。これからもお体を大切にされ、活躍されることをお祈り申し上げます」といただきました。

本当に多才で、絵本などもですね、出版をされているというCoccoさんですが、続いてインタビュー後半です。

Coccoさんは "沖縄出身の歌手" として評価をされることをデビュー当時は意識的に避けていた、そうなんですね。ただ、2000年代の半ば、30歳前後からは、沖縄をテーマにした歌を次々に歌うようになります。

どんな変化があったんでしょうか。インタビューをお聞きいただきます。

-----(インタビューに戻る)-----

2001年に、一回ソロミュージシャン、ソロアーティストCoccoとしては活動休止して、5年後、2006年に戻ってきました。

「はい」

活動再開して以降の、作品がですね、曲が沖縄っぽくなったねと言われるそうですね。これ、何か、あのー、活動休止期間を経て、何か、生まれてくる歌に影響があったんでしょうか?

「なんか、たぶん、やっぱり最初は日本のポップス界で勝負するときに、この "沖縄感" ていうのを前面に出すというのはちょっとインチキな感じがしたから。なんか、”沖縄便り" というか、三線持っただけで、なんかもう、ひとつ特別なことになるっていう中で、こーは三線じゃなくてちゃんとギターで勝負したいと思っていたし。でも、その活動中止の期間というか、その間に、やっぱりなんか "隠し切れない沖縄感" ていうか、あのー男子とかもそうさ、中学生になったらもう "隠し切れない男子感" が腕とかもう脚とかにばーっと出てくるみたいな」

はい。

「どんなに隠そうと思っても隠しきれないものが。こーも自分で何かそれを感じたというか。なんか出てきちゃってるなあっていう。で、なんにも考えずに、そのー歌った "音速パンチ" っていう歌が、東京でみんなにもう "でーじ沖縄だね" って言われて。そんとき本当にびっくりして "そうかな?" って。ああこれはもう、それで勝負しようって思ってもいないのに無意識に出ちゃうものっていうのは止めちゃいけないっていう覚悟もできたし。もう、沖縄を、私は、前面に出しても、もうそうだ "沖縄の女だから" もう、これでいいんだ、というところまで、なんか、そこでこれていたのかな、自分の気持ちとかも」

へぇえ。

「コンディションとかも。そういう感じ。だったはずです」

2006年ごろですねー

「はい」

はい。で、そういった、沖縄との関係の深いミュージシャンCoccoのですね、象徴的な曲をひとつ聞いていただきたいと思うんですけれども。

「はい」

これ2010年の曲です。『絹ずれ~島言葉~』です。

元は、同じ名前の『絹ずれ』というやまとぐちの、日本語の歌がありました。

「うん」

それを全編うちなーぐち、島言葉に、ま、いわば翻訳して歌ったわけですね。『鳥が堕ちた 私が殺った』これが『とぅいぬうちた わみぬしわざ』というふうに島言葉に変換されるわけですけれども、で、全編島言葉で歌ったのはこのときが初めてだったと聞くんですけれども。どうしてこれをやろうと思ったんですか?

「でーじ懐かしい話。思い出せるかな」

ちょっと前ですね。

「でーじ前だよね。久々に聞かれたんだけど」

2010年ごろでしょうか。はい。

「でもこれはー、なんだろなー。あのー。父親と向き合えた初めてのことなんじゃないかなーと思うんだけど。あのーうちは」

あの方言指導の方に真喜志勉さんとなっていますね。

「そう、父親で。そのーその父親の父親が真喜志康忠なもんだからー」

うちなー芝居の名優。

「大御所っていうか。大変偉大なひとだったので。家族はそれに結構巻き込まれた人生を送ってて。だから、あの、同じ道を歩んで欲しくないみたいな気持ちがあったから。割とあんまり応援はされなかったというか」

そうだったんですか?

「表に立つ、ことについて。だけど、こーは結局じーちゃんとは違うんだけど、ステージ、の上の人生というのを選んでここまできているんだけど」

はい。

「で、そのときに、ええっとー、なんていうのかな、で、沖縄を、あのー、で勝負するなよ、みたいな感じていうのはやっぱおばあとか父親からもたぶんそういう圧力っていうか、なんか、プレッシャーみたいなのはあって」

さっきのお話ですね。

「さっきの話に続くんだけども」

はい。

「たぶん、その、自分がどれだけ、日本で、日本人としてやれるかっていうことにこだわってやってきたんだけども、沖縄は自分の中でも、なんというかな、許容するというか、これで間違いじゃないんだ、ってできたときに、なんかこの歌を、うちなーぐちで歌いたいって、なんか、ぱーって思って」

へぇえ。

「で、それでー、歌詞を書いたものを持っていって。で、私の父親に、その紙を渡したら」

はい。

「なんか、えーこんなことしたらだめだよって。要するになんか100か0か。0か100かだから、うちの家族は」

はい。

「そのー、間違ったうちなーぐちは使わんでよろしい、っていう。そのー、もう誰も使ってないうちなーぐちを、なんか、本物のうちなーぐちが、なんていうのかな。ちゃんと喋る相手もいないと、それ成立しないことだし」

そうですね。

「だからそれスラングになっちゃだめだって言って。うちなーぐちっていうのは一切教えてもらえなかった」

そうなんですか。

「で、英語教育と日本語教育はうちあったんだけど」

はい。

うちなーぐち教育というのがなくて。英語よりすごい遠い存在だった。うちなーぐちっていうのは」

そうだったんですか。

「だったから、で、それで、初めてこーはこのばーちゃんとうちの父親に、相談したんだけど、うちの父親はなんかそういうこう中途半端なことは今はしたらだめよって言って、その紙を、なんかぐしゃぐしゃってやったから、あ捨てられると思ったら、なんかポケットに入れよったわけ」

はい。

「内ポケットの中」

はい。

「だから、あ、捨てはしないけどしまうんだーと思って。で、この話ここではい終わりみたいになったから。で、それで東京帰って、そしたらある日父親からFAXで、これが全部そのまま翻訳されたものが」

へえぇ。

「『とぅいぬうちた』が、ばばばばばーって送られてきて」

あの、歌詞カードに載っている。

「歌詞カードに載っているのが」

はい。

「で、それを、その日に、うわー来たって、それが初めて父親からもらった、なんか手紙みたいな感じがして、あ、私がうちなーであるっていうこと、真喜志康忠の孫であるっていうこと、全部それをもう日本で、堂々とそれを背負ってやっていいんだ、っていうか。なんか、私がうちなーぐちを喋ってもいいんだ。うちなーんちゅとして認められたんだ父親に」

はい。

「ていう。いまどきの子は喋れないからってシャットアウトされてたのが、なんか認められたんだってでーじ嬉しくて、で、スタジオに連絡したら、今時間空いてるっていうから、その父親からFAXが届いた日に、その紙持って自転車乗って、スタジオ行って」

えーーーっ!

「歌ったのが、その、島言葉バージョン」

うわあー、もう一気に、じゃあ。

「一気に。もう。ほんとに、あのとき嬉しくて。なんか、泣きながら自転車漕いだ覚えがある(笑) なんか」

ほんとですかー

「ああ、なんかあたし、沖縄と両想いになれるんだーと思って、なんか、とっても嬉しかった覚えがある」

じゃあ、この『絹ずれ~島言葉~』を歌うときっていうのは、やっぱり思い出もひとしおですか。

「うん。とっても好き(笑) なんか、そんなになんかわーっってすごい激しい曲じゃないんだけど、とっても自分の中のテンションが上がるっていうか。ライブでやるのがとっても好きな曲です」

そうですかー。

「血が、なんか、ばばばばーってなる(笑)」

その、話すことがたとえできなくても、これを歌えばそういう思いになるっていう。

「そう。なんか自分の中の沖縄が全肯定できるっていうか。なんか、それ、その感覚がこの歌にはあって。とっても、うちなーんちゅCoccoの大事な曲です」

そうですかー。今、Coccoさんが歌う、原動力というかですね、どんな思いを胸に、今は歌っているんでしょうか。

「原動力としては、もうこーはもう自分のために歌う力が残ってなくて」

うん。

「それは何かっていうとやっぱり年を取ったというのもあると思うんだけど。自分の子どもが、その、自分がデビューした年になったっていう。はたちになったっていうことで、なんていうかな、もう次の世代にバトンつなごうっていう、方に意識が強いから。自分の音楽活動によって、この若い人たちの何かチャンスを作れるんだとしたら、じゃあ、ちょっと、舞台に立って、歌う力も出るだろうっていう。感じかや。なんかその自分がはたちのときにメジャーデビューして、たくさんの大人に手伝ってもらって、素晴らしい景色いっぱい見してもらって、いろんな人に会えて、とっても、いい経験をいっぱいさしてもらったから。この、その、切符となるバトンっていうか。次の世代に繋ぎたいっていうか。あんたたちもこんな素晴らしい景色見てーっていう気持ちの方が強いから。早くこのバトンを正しく次の世代に渡したいから」

そのじゃあバトンを渡すというのはCoccoさんの新しい役割を見つけたいうか。

「うん。だあるだある。だあるだある。そうです。もうバトンをどうやって渡して、次の世代に、を見送るかっていうのが、もう今の自分のやりたいことっていうか」

へえぇ。

-----(インタビュー終わり。スタジオに戻る)-----

"だあるだある" っていうのは、”そうなんですそうなんです” っていうことを沖縄で "だあるだある" って言うんですよ。いやー、でもCoccoさんは今の活動をそのまま続けるだけで十分そのバトンは渡してゆけると思いますよ。

そうですね。しかも、その沖縄の言葉を歌えるようになったという過程がですね、知れると、またさらにそこにわれわれもですね、気持ちをのせられるというか。

そうですよね。ほかにもね、深みも広さも出るでしょうからね。もう期待しておりますよー。これからの活動!よろしくお願いしますー

はい。ここまで沖縄出身の歌手Coccoさんのインタビューをお伝えしました。

 

(了)